世界の歴史を勉強すると、日本という国がいかに平和で進んだ国だったのかが分かります。
ある人の言い分をそのままお伝えしますと、海外で殺人が無条件に駄目だとされたのは、早くてもここ何百年かの話です。
しかし日本は、千年以上も前からそうでした。
日本は平和で穏やかな国造りという意味では、超先進国なのです。
とは言っても、本当にそうだったのかは個人レベルでは確認しようがありません。
タイムマシンも無いのですから証拠もありません。
ですが日本人が造った国だと考えると、そうであったという確信は持てるんだと言う事が最近分かりました。
神社を巡っていると、日本人がいかに穏やかであるか、あったかが分かります。
少し神社と話が離れるかもしれませんが、仏教を考えると分かります。
概ね宗教というのは根本部分で変えられないのがネックとなり、宗教戦争や今でもテロ集団の傍に宗教が有ったりします。
でも日本では、仏教は神仏習合も果たし、柔軟に変えられてきました。
その教えも最初は厳格なものだったかもしれませんが、日本人に合ったものに変わるにつれ、最終的にはかなり適当なものへと進化しています。
キリスト教の教えは、信者しか救われなかったり、そもそも救われる人は最初から決められていたりします。
仏教も、他の宗教に排他的な部分が有ったり、念仏を唱えないと死後極楽に行けない等のルールがありました。
でも日本に来れば、都合の良い所だけを取り入れたり、仏教も仕舞いには死んだらみんな神様になるというユルユルの解釈へと進化してゆくのです。
『死んだらもうみんな神様でいいじゃん』
そんな事を言っている昔の日本人の姿が思い浮かびます。
※こんな言い方ではなく、あくまで印象です。
そしてやはりその根幹にあるのは、日本人の心が生み出した神社であり神道ですよね。
排他的な部分はなく、みんなが神様というユルユルの発想は、日本人だからこそだと思います。
いかにユルユルなのかが分かるものが神社には残されています。
これがなんだか分かりますか?
絵馬ですね。
でも馬の絵が描かれていません。
日本人は、今自分達に都合がいいように、適当に柔軟に変えて行ける穏やかさがあります。
だから鶏の絵が描かれていてもこれは絵馬なのです。
ところで絵馬はどうして生まれたのかご存知でしょうか。
こちらは絵馬殿ですが、奉納された絵馬が飾られています。
絵馬は奉納される為のものですが、何故このようなものが奉納されるようになったのでしょうか。
それは、神聖な動物である馬がそもそも奉納されていたわけですが、奉納する方もされる方も色々と厄介ですよね。
馬は手に入れるのが難しいですし、貰っても世話が大変です。
そこで昔の日本人は言ったわけです。
『もう絵に描いた馬で良くね?』
そしたらみんな空気を読んで『だよねぇ~』なんて言いながらなんとなくそうなっていったのだと想像します。
※こんな言い方ではなく、あくまで印象です。
そして今では小さな絵馬に願い事を書いて、奉納と祈願を一緒にしちゃってもいます。
『奉納して祈願するんだからもう一緒で良くね?』
『おっ、おう!』
※こんな言い方ではなく、あくまで印象です。
御百度参りや何ヶ所かを参拝するものも簡略化されたりしています。
おそらく遠い昔、海外から色々な思想が入ってきたのだと思います。
でも日本に来ると、それらはことごとく骨抜きにされユルユルになってきたのではないでしょうか。
そんな事が想像できてしまいますね。
それでいて守られている部分ってのも実は結構あるのが日本です。
この辺りに、大切なモノとそうでないモノの境があるのだという気がしますね。
こんなにユルく穏やかな日本人が頑なに守ってきたものは、おそらく相当大切なものなのだと思うのです。
日本の歴史を見れば今の日本が分かります。
神社を見て今の日本を知り、私はますます日本という国を大切にしたいと思いました。